古事記

5分で読める「古事記」中巻(10)・神功皇后の新羅遠征

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古事記・中巻

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仲哀天皇の死去

第13代・成務せいむ天皇には子がいませんでした。

天皇が亡くなった後、ヤマトタケルの子が第14代・仲哀ちゅうあい天皇として即位し、筑紫ちくし(北九州)の訶志比宮かしひのみや(福岡県福岡市)で国を治めていました。

仲哀天皇が九州南部の豪族・熊曾くまそを討伐しようとしていた時、妻の神功じんぐう皇后が神がかりされました。

天皇が琴を弾き、タケノウチノスクネが神意を求めた所、皇后に乗り移った神が「金銀財宝に恵まれた、西の国を与えよう」と告げました。

しかし、仲哀天皇が「西の方を眺めても、国は見えない」と言って疑い、琴を弾くのをやめてしまったので、神は激しく怒ってしまいました。

そして、「この国(日本)さえも、そなたの治める国ではない。死の国へ行け」と命じたので、タケノウチノスクネは仲哀天皇に琴を弾き続けるように言いました。

仲哀天皇は渋々従ったものの、そのうち琴の音が聞こえなくなったので、灯りをつけると天皇は既に亡くなっていました。

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神功皇后の新羅遠征

その後、神功皇后に再び神のお告げがありました。

神は住吉三神(ソコツツノオ、ナカツツノオ、ウワツツノオ)であることを明かすと、皇后のお腹の中にいる御子が今後国を治めると告げました。

さらに、全ての神々と住吉三神を祀らせ、西の方にある国への行き方を教えました。

神功皇后はお告げ通りに軍勢を整えて出撃しました。海にいる魚たちが船を背負って運び、強い追い風が起こって、勢いのままに新羅しらぎに上陸しました。

この様子に新羅王は恐れおののき、戦わずして降伏しました。

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神功皇后の出産

新羅遠征中に陣痛が始まっていた神功皇后でしたが、石を腰に巻き付けて出産を遅らせていました。

そして、新羅を平定した後に筑紫で出産しました。

大和に戻る時、御子の命が狙われるのを恐れ、御子が亡くなったと噂を流し、喪船もふねに乗って出向しました。

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仲哀天皇の後継者争い

母親違いの兄・カゴサカとオクシマは、御子を殺害するために反乱を計画します。

勝敗の神意を伺う誓約うけい狩りに出かけると、カゴサカは大きな猪に食い殺されてしまいました。

これは負け戦の印でしたが、オクシマは計画を進めました。

オクシマの船団が神功皇后の船団を待ち受け、戦が始まりました。一進一退の戦況が続いた後、皇后軍の大将・タケブルクマは「皇后が亡くなったので戦いをやめよう」とウソをもちかけます。

相手が油断した隙に、皇后軍は一気に攻め入りました。

追い詰められたオクシマ軍は、淡海あわうみ(琵琶湖)の岸辺で壊滅し、船に乗って逃げたオクシマは、湖に飛び込んで命を絶ちました。

誓約とは、神に誓いを立てて祈り、神意として示された兆候から事の善悪・真偽などを判断する占いです。
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神功皇后の御子の名

戦いに勝った神功皇后軍の大臣おおきみ・タケウチノスクネは、戦の穢れを祓うため、御子を連れて琵琶湖と若狭国わかさのくにを経由し、高志前国こしのみちのくに角鹿つぬが(福井県敦賀市)に仮宮を建てて滞在しました。

ある晩、この地にいるイザサワケが夢に現れて、「御子と名を替えよう。夜が明けたら浜へ出なさい。祝いの贈り物を差し上げよう」と告げました。

名前を交換する約束をした翌日に浜辺に出てみると、イルカが海岸いっぱいに押し寄せていました。

こうして御子は、神からホムダワケ(第15代・応神おうじん天皇)という名を賜り、御子はイザサワケにミケツ大神と名付けました。

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応神天皇の即位

ホムダワケが禊を終えて都に戻ると、神功皇后がお祝いの待酒まちざけを差し上げ、祝いの酒歌を歌いました。

こうして角鹿の神と名を交換し、歓待の酒宴を行うことによって第15第・応神天皇が即位しました。

神功皇后は、御子の即位を見届けたのち、100歳を迎えた年にこの世を去りました。

待酒とは、訪れて来る人に飲ませるために、あらかじめ造っておく酒のことです。ここでは旅からの無事の帰りを祈るための儀礼とされています。