一宮城と加納久宜公
一宮城とは
一宮城は、天然の地形を利用した標高約30mの台地上に築かれた平山城です。
築城時期は南北朝時代から16世紀とされていますが、詳細は不明です。
長生郡郷土誌では
- 永禄5年(1562年)9月、一宮城主・内藤久長が里見氏に叛き、討たれて落城した。
- 同年7月、一宮城主・糟谷大炊助が勝浦城主・正木時忠、時通親子に討たれて落城した。
房総里見氏の研究では
- 永禄8年(1565年)2月~6月、正木時忠が里見氏に叛き、一族の一宮城主・正木大炊助憲時を追い落として城を奪った。
など諸説あり、史実はハッキリしていません。
天正18年(1590年)、本田忠勝ら数万の軍勢に攻められて再び落城し、文禄年間(1952年~1595年)に廃城となりました。
文禄元年(1952年)、本田忠勝の支配する大多喜領となった後、領主の変遷を経て明暦3年(1657年)には脇坂淡路守安元、文政9年(1826年)には加納遠江守久儔によって陣屋が作られましたが、明治維新によって取り壊されました。
参考 一宮町ホームページ検索結果
加納久宜公とは
加納久宜公は、一宮藩最後の藩主です。
嘉永元年(1848年)、陸奥国(現福島県)下手渡藩主・立花種善の弟の子として生まれ、慶応3年(1867年)に一宮藩・加納家の養子となり、藩主となった直後に明治維新を迎えます。
その後、新潟学校長や大審院検事などを歴任、明治27年(1894年)に鹿児島県知事に就任し、現在の鹿児島県の基礎を築きました。
明治45年(1912年)に、一宮町民の熱望で一宮町長に就任し、耕地整理や観光開発をはかり、一宮海水浴場の開設や、名士の別荘誘致を行いました。
農業振興や教育政策など多数の事業を推進し、一宮町を全国の「模範村」と称されるまで発展させました。
公園内の広場
ベンチなどはありませんでしたが、桜の木が植樹されていました。
加納久宜公紀徳の碑
一宮町長在職6年、大正6年(1917年)に退任した久宜公の業績をたたえ、旧一宮役場に建立されました。
この碑を建立するにあたり、徳川家達(徳川宗家の後継者)、後藤新平(外務大臣・内務大臣・東京市長などを務めた政治家)、野村素介(後の日本書道会の会長)と、すべて当代一流の人物が携わっています。
※この碑は、昭和63年(1988年)に現在地へ移されました。
加納久宜公の墓
久宜公は大正8年(1919年)に療養先の大分県別府で亡くなりましたが、久宜公の功績を称え、遺徳を慕う多くの町民の懇請により、大正11年(1922年)に分骨を納め建立されました。
墓前の薩摩風石灯篭一対は、昭和18年(1943年)に鹿児島県加納知事顕彰会から献灯されました。
お墓は町を見下ろす城山にあり、一宮の町と海が見渡せます。
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アクセス
城山公園(しろやまこうえん)
- 住所:千葉県長生郡一宮町一宮
- 電話:0475-42-1427
- 駐車場:有
- トイレ:無
- 公式サイト:無
最後に
公園の大手門から一宮小学校へと続く道は、桜並木となっています。
玉前神社から歩くと丁度いい運動になるので、桜の季節にはぜひ訪れてみて下さい。