大巌寺とは
天文20年(1551年)、生実城主・原胤栄夫婦の開基、道誉貞把上人の開山により創建された学問寺で、江戸時代には浄土宗の関東18檀林の一つとして栄えました。
永禄3年(1560年)に堂塔伽藍が整い、鎮守として東に愛宕、西に鷲明神、北に富士、客殿の前に天照皇太神等を勧請しています。
境内の林中に大沢があり、昔から「龍が澤」と呼ばれていたことから、この寺に龍澤道場(精舎)と名付け、のちに山号を龍澤山としました。
一世・貞把上人、二世・虎角上人、三世・霊巌上人、四世・随流上人、五世・潮流上人などの名僧が相次ぐと、全国から修学を志す若い学徒が集まって檀林として隆盛を極めましたが、増上寺など江戸の檀林が盛況していくと、徐々に衰微の傾向をたどっていきました。
明治2年(1869年)2月には、他の檀林とともに勅願所となっています。
三門
朱塗りの立派な門です。
山号は龍澤山。
旃檀林と書かれた額。
本堂
本堂の引き戸と鬼瓦に三つ葉葵の紋が見られます。
大巌寺は徳川家康と縁深く、将軍家の位牌所であったことから、丸に三つ葉葵の紋が用いられているそうです。
また、二世・虎角上人は家康公と親交があり、原氏滅亡後、幕府の祈願寺となると朱印百石が寄せられました。
不動堂
一世・道誉貞把上人は、愚鈍な自分を改めるため、成田不動尊に籠って修行をしました。
修行を終えた夜、鋭利な剣と錆びた剣を持った不動明王が夢に現れました。
「願いを叶えたいならば剣を呑め。どっちの剣を呑むか?」と聞かれ、上人が鋭利な剣を選ぶと、不動明王は上人の喉を切り裂きました。
翌日、血に染まった上人が発見され、不動明王の剣には血が付いていました。
それ以来、上人は生まれ変わったかのように聡明な人になり、大巌寺を開山したあと、成田不動尊の分身を勧請して安置しました。
不鳴の池
その昔、夏になるとこの池に無数の蛙が集まり、夜通し鳴き続けて学僧の勉学を妨げました。
そこである日、道誉上人は池の畔に立ち、一心に念仏を唱え、人に向かって諭すように慈愛を込めて蛙の鳴き声を戒めました。
すると不思議なことにその鳴き声はピタリと止み、それ以来学僧の修学時間になると鳴き声は静まりました。
それから、この池は「不鳴の池」と呼ばれるようになりました。
虎角の杉
二世・安誉虎角上人はこの杉をとても愛し、朝夕になると杉の下に座って念仏を唱えていました。
上人は門弟たちに「私が死んだらこの肖像画によって喪を修めなさい」と遺言を残し、戸板を敷いて念仏三昧に入りました。
ある日、上人の念仏が止んだので様子を伺うと、上人の御遺骸、戸板、肖像画の全てが消えていました。
弟子たちが探しても見つからず、いつの間にかこの杉の木の下に集まると、上方の梢で上人の肖像画が尊い光を放っているのが見えたので、上人がここから昇天したと信じ、感涙にむせびつつ合掌しました。
この杉は裏山にありましたが、すでに衰倒していた幹の一部を現在の場所に移し、虎角上人ゆかりの霊木として祀っています。
雨降り井戸
この古井戸は、「雨降り井戸」「虎角井」と呼ばれた不思議な霊験を持つ井戸です。
その昔、日照りが続いた時など、農民の切なる願いに応え、この場所で「雨乞い祈願」の百万遍念仏が唱えられました。
すると、数日のうちに恵みの雨が降り、人々が歓喜したとのことです。
本堂向拝欄間彫刻と仏力加祐の木
本堂上り口の向拝を見上げると、上段には大巌寺ゆかりの鵜、
中段には孔雀、下段には三匹の霊亀が彫られています。
よく見ると真ん中の霊亀は、龍の頭と亀の身体を持つ霊獣「龍亀」となっています。
この大きなクスノキは、昭和46年(1971年)まで鵜が生息していました。
その当時は生気を失っていましたが、鵜が絶滅した後に蘇りました。
これは仏力のご加護であると、「仏力加祐の木」と名付けられました。
鵜の森の塔
大巌寺の森は、川鵜の生息地として千葉県の天然記念物に指定されていました。
周囲の工業開発と都市化により昭和47年(1972年)には鵜が絶滅し、その姿を見ることができなくなってしまいました。
数百年にわたって父祖の暮らしと深く関わってきた鵜の森を永く子孫に伝えるため、記念の塔が建てられました。
大悲観世音菩薩像
こちらは納骨塔なのですが、心休まる温かい眼差しが感じられます。
アクセス
大巌寺(だいがんじ)
- 住所:千葉県千葉市中央区大巌寺町180
- 電話:043-261-2917
- 駐車場:有
- 参拝時間:自由
- 公式サイト:無