中野城とは
中野城は、文明年間(1469年~1487年)に、原氏の客将・遠江国の酒井小太郎定隆が築城した城で、現在は居城はなく、本堂の北に土塁と空堀が残っているだけです。
長享元年(1487年)、定隆は原氏と共に土気城の畠山氏を攻め落とし、長享2年(1488年)、再興した土気城に移りました。
定隆は日泰上人との約束に従い、領内の寺院や住民を法華宗に改宗させる宗教政策(七里法華)を行い、日泰上人を迎え入れました。
延徳元年(1489年)、日泰上人は廃城になった中野城跡地に本城寺を創建し、布教に努めました。
日泰上人との約束
文明6年(1474年)、定隆は古川公方足利成氏の元を離れ、安房の里見氏の元へ赴く途中、品川から帰る日泰と同じ船に乗りました。
ところが出航してまもなく、転覆せんばかりの嵐に見舞われました。この時、日泰が船の舳先に立ち、「南無妙法蓮華経」を唱えると、風はたちまち鎮まり、乗船の人々は難を逃れることができました。
定隆はその法力に感嘆し、「自分が一城の主となった暁には、貴僧を迎え、領内ことごとく宗門となし、今日の御礼と致しましょう」と約束しました。
一飯の恩を持たない酒井定隆
酒井定隆は、室町時代後期から戦国時代初期にかけての武将で、上総国土気城主・酒井氏の祖先です。
当初、室町幕府で将軍義政・義尚に仕えましたが、給料が安かったので退職し、家来三人を連れて関東で一旗揚げようとしました。
その後、古川公方足利成氏に仕えたのですが、成氏が鎌倉から下総の古河に逃げたので見切りを付けます。
次の主人を求めて安房の里見義実を頼り、里見氏の援助を受けて畠山重康を攻め落とすと、53歳の時に土気城主となりました。
定隆は「国を出てから主君に仕えたがそれは主君に忠を尽くすためではない。 名を立て家を発せんためであると独立し、大名になることが目的である」とハッキリ言っているので、野心家で、大名になるために主従関係を結ぶという戦国時代の典型的な下克上武将と言えます。
まあ、この時代では当たり前のことなんですけどね。
山門
山号は「長秀山」。
中野城址碑
中野城址は東金街道(国道126号)よりも低い位置にあるため、当時の守りはどうだったのかな?と、疑問に思ってしまいました。
泰師堂
山門正面にある泰師堂は、開基である日泰上人が祀られています。
本堂
本堂は長い間改修工事が行われていないような佇まいで、歴史の重みを感じました。
鐘楼
アクセス
本城寺(ほんじょうじ)
- 住所:千葉県千葉市若葉区中野町699-1
- 入場料:無料
- 駐車場:有
- トイレ:有
- 公式サイト:無
国道126号に本城寺入口の看板がありますが、東金方面から来た場合は見落とす可能性大なので、加研工業(株)を目印にして曲がるのがベストです。
その先は狭くて急な下り坂になっているので、必ずスピードを落としてください。
駐車場は広間のようになっています。